世界における食品産業の市場規模は、2030年には、現在の約2倍の1400兆円に達する見込みです[1]。最近、そのような食品産業を牽引する重要なキーワードの1つとして、食感(テクスチャ)が取り上げられています[1]。食感の理論的(定性的・定量的)記述を課題として、食品は、生物学・化学・物理学分野にわたる、分野横断的・学際的研究の対象となってきています[2]。
食品(食品コロイド)は高分子であるため、食感を与える食品の振る舞い(テクスチャ形成ダイナミクス)を、分子動力学法などの従来手法を用いて計算するには、膨大な計算資源が必要となります。例えば、食品を1ミリ四方のコロイドとし、調理時間を1ミリ秒としても、$10^{17}$ 原子からなる $10^{12}$ ステップの計算を行わなければなりません。そのようなテクスチャ形成ダイナミクスの計算は、最新鋭のスパコンを用いても困難です[3]。まして、食品を構成する高分子の振る舞いは、調理過程における熱的・材料的・力学的因子により、相転移的・自己組織的に多様に変化するため、テクスチャ形成ダイナミクスの計算を従来手法で行うことは大変困難です。
そこで、食品を構成する高分子の振る舞いを高速かつ柔軟(多様な変化に対応可能)に計算する理論モデルの確立へ向けた試みの1つとして、食品の結合写像格子(Coupled Map Lattice[4][5]、CML)を用いた構成的(手続き還元的)アプローチを提案します[6][7][8][9]。特に、生クリーム(水中油滴O/W型エマルション)からホイップクリーム(フォーム)を経てバター(油中水滴O/W型エマルション)へと至る転相現象をCMLによる高速計算を用いて再現し、転相現象における、それら食品コロイドの振る舞い(高次元アトラクタ)の変化を、分岐現象、相転移現象、自己組織現象の観点から明らかにしたいと考えています。加えて、レオロジーの観点から導かれる、高次元アトラクタの動的構造に基づいた食品コロイドの粘弾性について調べ、粘弾性の変化による食品コロイドの分類が、食感の定性的記述に向けた指針となりうるのかを明らかにしたいと考えています。
生クリーム(図1(a)参照)では、水中に脂肪球という油滴がクーロン力より反発し合い、準安定的に分散しています。これを撹拌すると、内部の脂質結晶を介した脂肪球同士の凝集、決着、部分合一により、ホイップクリーム(脂肪球同士がブドウの房状に連鎖した構造をとって気泡を保護します)になります。さらに、撹拌すると、合一による転相が生じ、バター(図1(b)参照)になると考えられています[2][10]。この転相現象の詳細は、その複雑さから未だ解明されていません[2][10]。
a | b |
生クリームからホイップクリームを経てバターへと至る転相現象を実験により確かめました(撹拌温度が高い場合、12℃〜18℃)。冷蔵庫から出した後しばらく室温で放置した生クリーム(図2(a)参照)をボウル(図2(b)参照)に入れ、泡立て器(図2(c)参照)を用いて、氷を当てずに手動で撹拌(図2(d)参照)しながら、100 回撹拌するごとに、その様子を観察しました(図3参照)。
abc
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d
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生クリーム(
)は、撹拌を始めるとすぐにやや粘性を増しますが、撹拌500 回目まで、ほとんど変化しませんでした( )。その後、生クリームは、撹拌600 回目から、ホイップクリーム状になり始め( )、撹拌700 回目には、角が立ったホイップクリームになりました( )。角が立ったホイップクリームは、撹拌800回目から、再び滑らかになり始め( )、撹拌900 回目から撹拌1400回目までは、表面に膜が張り、角の立ち具合が微妙に変化する、生クリームとホイップクリームの中間的な状態になりました( )。表面に膜の張った生クリーム状のホイップクリームは、撹拌1500回目から、再び角が立ち始め( )、撹拌1600回目には、もう一度、角が立ったホイップクリームになりました( )。角が立ったホイップクリームは、撹拌を続けていると突然強い粘性、弾性を示すようになり、撹拌1700回目から、そぼろ状のバターへとその姿を変え始めました( )。撹拌1800回目には、大きくなったバターの塊からバターミルク(脂肪球を構成していたタンパク質を含んだ水、チーズの材料などに利用されることがあります)が抜け始めました( )。そして、撹拌1900回目で、バターとバターミルクが出来上がりました( )。この実験を通して、転相現象における食品エマルションの振る舞いは、とても複雑かつ多様であることが分かりました。
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生クリームからバターへと至る転相現象を再現するための、食品のCMLを以下のように構築します[6][7][8][9]。
格子間距離を1とする、格子点数 $N_{x}\times N_{y}$ の2次元正方格子をとります。格子点を $ij$($i=0,1,\cdots,N_{x}-1$、$j=0,1,\cdots,N_{y}-1$)と表します。また、境界条件を壁境界とします。
離散時刻 $t$、格子点 $ij$ における場の変数として、エマルションの界面エネルギー $s_{ij}^{t}$(水/脂肪界面、空気/脂肪界面、空気/水界面)、凝集エネルギー $c_{ij}^{t}$、速度 $\Vec{v}_{ij}^{t}$ を定義します。
ラグランジュ手続き[4][5]として、撹拌による作用を表す手続き $T_{w}$ を定め、オイラー手続き[4][5]として、合一による作用を表す手続き $T_{c}$ と凝集による作用を表す手続き $T_{f}$ を定めます。撹拌による作用を表すラグランジュ手続き $T_{w}$ では、撹拌により生じた格子点 $kl$ の流れ $\Vec{w}_{kl}^{t}$ により、エマルション中の水/脂肪界面(脂肪球膜)が変形すると共に、エマルションが格子点 $kl$ から格子点 $ij$ へと運ばれ、格子点 $ij$ に新たな状態のエマルション(界面エネルギーを $s_{ij}^{t+1/2}$、凝集エネルギーを $c_{ij}^{t+1/2}$ 、速度を $\Vec{v}_{ij}^{t+1/2}$ とする)が形成されるものとします。合一による作用を表すオイラー手続き $T_{c}$ では、新たに生じた格子点 $ij$ のエマルションにおいて、界面エネルギー $s_{ij}^{t+1/2}$と凝集エネルギー $c_{ij}^{t+1/2}$ に応じて、空気の抱きこみや凝集の促進が起こり、脂肪球膜の界面活性が低下することで、脂肪球同士が部分合一し、界面エネルギーが $s_{ij}^{t+1}$へ、凝集エネルギーが $c_{ij}^{t+1}$ へそれぞれ変化するものとします。凝集による作用を表すオイラー手続き $T_{f}$ では、脂肪球のフロック凝集やオストワルド熟成により、エマルションの速度が $\Vec{v}_{ij}^{t+1}$ へ変化するものとします。
系の1ステップ(離散時刻 $t$ から $t+1$)での時間発展を、撹拌による作用を表すラグランジュ手続き $T_{w}$、合一による作用を表すオイラー手続き $T_{c}$、凝集による作用を表すオイラー手続き $T_{f}$ の逐次実行により、 \begin{equation} \label{eq:dynamics} \left( \array{ \hspace{7px} s_{ij}^{t}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} c_{ij}^{t}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} \Vec{v}_{ij}^{t}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ } \right) \stackrel{T_{w}}{\longmapsto} \left( \array{ \hspace{7px} s_{ij}^{t+1/2}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} c_{ij}^{t+1/2}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} \Vec{v}_{ij}^{t+1/2}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ } \right) \stackrel{T_{c}}{\longmapsto} \left( \array{ \hspace{7px} s_{ij}^{t+1}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} c_{ij}^{t+1}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} \Vec{v}_{ij}^{t+1/2}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ } \right) \stackrel{T_{f}}{\longmapsto} \left( \array{ \hspace{7px} s_{ij}^{t+1}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} c_{ij}^{t+1}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ \hspace{7px} \Vec{v}_{ij}^{t+1}\Rule{0px}{1.1em}{0px} \hspace{7px} \\ } \right) \end{equation} と定義します。
提案した食品のCMLによるシミュレーションを行いました。その結果、高低の撹拌温度において、実験[11][12]や製菓の経験則とよく一致する、2つの異なる転相過程が再現されました[6][7][8][9]。図4(a)に、高い撹拌温度(図3の実験に対応)における転相過程のアニメーション、図4(b)に、低い撹拌温度における転相過程のアニメーションをそれぞれ示します。
図4(a)の高い撹拌温度における転相過程は、おおよそ以下のようです。撹拌すると脂肪球が部分合一し、泡立ちが生じます。撹拌温度が高いときには、脂肪球膜の界面活性が下がりやすく、脂肪球がすぐに合一するため、泡立ちは小さいまますぐに消えていきます。泡立ちの無くなったところでは、流れに沿った弱い凝集による筋状パターンが形成されます。その一方で、撹拌速度の速い外側では、生まれたばかりのごく小さなバターの粒が見え始めます。バターの粒は、流れの衝突に伴う強い凝集により生じた小さな泡立ちの中で、その凝集エネルギーを急速に増やしながら大きくなっていき、あちらこちらでそぼろ状のバターへと成長していきます。そして、エマルションがそぼろ状のバターで一気に埋め尽くされることで、転相が起こります。
図4(b)の低い撹拌温度における転相過程は、おおよそ以下のようです。撹拌すると脂肪球が部分合一し、泡立ちが生じます。撹拌温度が低いときには、脂肪球膜の界面活性が下がらず、脂肪球が合一しにくいため、泡立ちはどんどん増していきます。十分に泡立った外側では、ようやく脂肪球の合一が始まりますが、空気を大量に抱き込んでいることで、脂肪球の凝集が促進され、流れに沿った長い筋状パターンが、細かい間隔で次々と形成されます。これにより生じた流れの衝突が、さらなる強い凝集を引き起こし、小さなバターの粒が見る見る内にそぼろ状になっていきます。撹拌温度が低いときには、泡立ちは残り続け、その中にそぼろ状のバターが形成されることで、転相が起こります。
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今回提案した、食品のCMLのシミュレーションを行った結果、高低の撹拌温度において、実験[11][12]や製菓の経験則とよく一致する、2つの異なる転相過程が再現されました。今後、各手続きに付随する、調理過程を特徴付ける調理パラメータ(撹拌温度、膜物性、撹拌速度などの熱的・材料的・力学的パラメータ)を広範囲に変えながら、転相現象におけるエマルションの振る舞い(相転移・自己組織・分岐現象に伴う多様な変化)を調べ上げたいと思います。加えて、高次元アトラクタから導かれる粘弾性の変化を用いた食品エマルションの分類が、食感の理論的(定性的)記述に向けた指針となりうるのかを検証し、複雑系の立場から、食品エマルションの美味しさの秘密に迫りたいと考えています。また、“おいしい新食感”を模索する、テクスチャデザインにも挑戦する予定です。